長塚節は、明治12年(1879) 4月3日に父源次郎、母たかの長男として、茨城県岡田郡国生村(現常総市国生)に生まれました。
母は、長塚家の縁戚真壁郡中新田村渡辺佐四郎の二女で、子供のない長塚家に幼い頃から養女として育てられ、父は、筑波郡上菅間村青木新平の二男でともに養女、養子でした。
父の源次郎は、加養村の大沢竜太郎塾に学び、後の民権運動家飯村丈三郎(横瀬夜雨の叔父)と親交があり、明治20年から県会議員、同40年には第20代議長を務めました。
長塚家は、節の祖父久右エ門が商才のある人で、質屋 ・ 肥料 ・ 小間物等の商いを家業とし、節の誕生した頃は水田6町6反余・畑15町9反余を保有し、多数の使用人を抱え農業経営も営んだ幕末維新期の豪農でした。
茨城尋常中学校(現水戸一高)2年生の学年試験では、平均84点で102人中3番の成績でしたが、3年生の頃から不眠症の徴候があり、4年生進級後も回復しないため退学し、国生に帰り自然に親しみながら作歌や旅をして健康回復に努めました。
明治31年(1898) 2月 ・ 3月に子規が、新聞「日本」に発表した『歌よみに与ふる書』『百中十首』を熟読し、写生の歌を学び始め、正岡子規に傾倒し、同33年(1900) 3月27日に節(22歳)は、初めて正岡子規(33歳)の居宅「子規庵」を訪問しますが、先客があって気おくれし、翌日再度訪問し面会しています。
31日の3回目の訪問時に子規は、火をつけた線香を持ってこさせ、それが燃え尽きる間にここの実景を歌に詠めと命じました。このとき詠んだのが『歌人の竹の里人おとなへばやまひの牀に絵をかきてあり』に始まる10首です。
この一連の歌は、節の誕生日である4月3日の新聞「日本」に掲載され、節は大変感激しています。
子規入門後は、子規の愛弟子として伊藤左千夫、岡麓、香取秀真、高浜虚子、河東碧梧桐らと活躍するとともに、全国各地に旅するようになります。
また、父の政治活動による浪費で傾いた家運の挽回をはかるため、炭焼きの研究や竹林栽培に情熱を傾け、子規の助言を守り岡田村青年会の初代青年会長となり堆肥の改良など農村振興に努めました。
明治40年(1907) 11月に写生文「佐渡が島」を『ホトトギス』に発表し、高浜虚子に明治40年度の客観写生文の第一の傑作と賞され、これを読んだ夏目漱石の意向で朝日新聞に長編小説「土」を連載しています。
明治44年(1911)12月に喉頭結核の診断を下され、東京や福岡の病院で治療に努めながら、各地を旅して大正3年から有名な231首の短歌を詠んだ鍼の如くを発表しています。
大正4年(1915) 2月8日、福岡県の九州帝国大学医科大学(現九州大学医学部)付属病院で36歳の若さで亡くなりました。