更新日:2015年1月30日

地域交流センター 館内案内(4階)

いしげ結城紬

(写真)地域交流センター4階いしげ紬

いしげ結城紬は、経糸に生糸、緯糸に真綿の紡糸を使い、主として絣模様に織り上げた正絹織物です。
絹織りの技術は、崇神天皇の御代、「あしぎぬ」として世にで、奈良・平安時代には筑波山西部地方一帯に定着いたしました。当地方は、麻、絹、綿等が古くから盛んで、藍、紅花などの植物染料で染め地機を使い木綿縞等を織って自家用に供するとともに時の中央政庁等へ貢物として用いられてきたといわれます。
嘉永3年(1850)頃に至り、高機の導入により生産が増え、明治後期から大正にかけての技術改良により、紬御召絹綿交織縮等も新製品も開発され、織物産地の基盤が確立され今日に至っています。

写真

地機
明治初期まで織り機の主力をなした地機。地機で織られた製品は、堅牢で耐久性に優れた特色をもち、実用衣料として利用されました。

酒造り

(写真)地域交流センター4階酒造り

日本では3世紀頃、すでに飲酒の習慣があったことが「魏志倭人伝」にみえます。
奈良・平安時代には、酒は儀式、供御用として朝廷・寺社中心で造られ、その後しだいに民間に移り、鎌倉時代には販売目的に専門業者によって造られるようになりました。
14世紀末の足利義満の頃には、酒税(酒屋役)が課せられ幕府の重要な財源の一つとなっています。
仕込みも安土・桃山時代頃に鉋や鋸の導入や竹のタガの使用により大型化し、酒造りを専門に職業とする杜氏が生まれました。
江戸時代に清酒の製法が本格化し、各農村でも上層農民による造り酒屋が生まれ、地酒の生産がされていました。
石下でも江戸中期頃(元禄期)には、すでに酒造りが行われていました。

桐下駄

桐は、軽軟で加工し易く狂いがなく、仕上がりに光沢があって美しく、湿気を通さないなどの特色を生かしてタンスをはじめ種々の和家具、細工物、下駄など広く使用されてきました。
下駄は、古くはアシダと称し、近世になってゲタと呼ばれるようになりました。
桐下駄は室町時代から生産され、江戸中期以降に一般必需品として需要が高まり、当地方も旗本の桐の植付け奨励策等により産地化し、鬼怒川を利用して盛んに出荷されました。
鬼怒川流域(結城地方)は、福島県会津地方等とともに桐下駄の生産地として知られています。しかし、昭和30年頃を境として下駄の需要は少なくなり、生産高は減少しています。

桐下駄道具及び工程

桐下駄が完成するまでには、のこぎりからカンナまで約25種類の道具が使用されます。
桐下駄の主な工程は、

  1. 木取り
  2. 乾燥
  3. 取組
  4. 間引き
  5. 七分
  6. 鼻廻し
  7. 仕上げ
  8. 磨き加工
  9. 鼻緒付け

があります。
下駄は、季節や着る物によって履き変えられます。男物には「ごうけつ」「柾磨き」、女物には「小町」「芳町」「日和」等があります。
当地方の桐下駄は、北海道から関西地方まで出荷されています。

農具

(写真)地域交流センター4階農具

日本の農耕(稲作)は、各地の遺跡の発掘調査によって縄文晩期終末に中国大陸から北九州地方へ伝わり、急速に稲作技術が東北地方にまで展開されたことが明らかになってきました。
農具は、当初は木製でしたが、弥生時代中期に鉄製の刀をもった鍬・鋤が登場し、古墳時代にはU字形鍬・鋤が採用され、鉄製根刈カマや家畜利用の農具が利用されるなど、現在に続く農具の基本形は5世紀に完成したといわれています。
日本の農業は、昭和35年頃を境に動力化がすすみ、手作業から機械化へ移るにしたがい、先人達が伝えた農業文化や農具類は姿を消しつつあります。

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