更新日:2018年7月12日

地域交流センター 館内案内(3階)

ヒストリーコレクションウォール(常総歴史絵巻)

 平成30年4月のリニューアルにより、3階常総の歴史フロアに新たにヒストリーコレクションウォール(常総歴史絵巻)が設置されました。

 この機器はスマートフォン等のように画面をタッチ操作して常総市の歴史についての写真、説明が表示されるもので、お子様にもお楽しみいただけます。

 

ヒストリーウォール

展示資料について

 地域交流センター3階及び4階展示室は旧石下町の歴史資料展示施設として平成4年にオープンしました。現在も展示資料は旧石下町の歴史に関連する資料を中心に展示をしています。

古代の石下(旧石器・縄文・弥生時代)

 日本列島に人々が暮らし始めたのは4万年前頃と考えられていますが、この頃の日本列島はユーラシア大陸と陸続きで、マンモスやナウマンゾウ、オオツノジカなどの大型哺乳類が生息していました。寒冷な氷河期が続いていた時代で、これより土器が作られるようになる1万3千年前頃までを旧石器時代と呼びます。常総市あたりにもナウマンゾウがいたようで、この近辺では化石も発見されています。この頃の人々は石や動物の骨で道具を作り、移動しながら生活していました。

 その後、気候は少しずつ温暖化し、縄文時代前期(6千年前頃)に最も暖かい時期を向かえますが、海の面積が拡大し、関東平野の低地部は浅い海になります。人々は家を建てて定住化し、土器や弓矢を使うようになりますが、貝や魚、木の実、シカ、イノシシなどを食べる狩猟採集生活は続けられました。この頃の遺跡が、鴻野山貝塚や崎房貝塚です。

 紀元前3世紀頃に大陸より米作り(稲作)の技術が九州地方の北部に伝えられ、弥生時代が始まります。常総市を含む東日本地域に稲作が伝わったのは弥生時代の中頃と考えられていますが、市内における弥生時代の遺跡は国生本屋敷跡・馬場堤下遺跡などと少なく、この時期の常総地域の姿はまだはっきりしていません。

関山式期堅穴住居(せきやましきき たてあなじゅうきょ)

 鴻野山地区にて見つかった貝塚の調査で見つかった竪穴式住居跡から復元した模型を展示しています。 今から約6千年前のもので、縄文時代前期の関山式期と呼ばれる時代のものです。

竪穴式住居再現

縄文時代遺跡からの発見

古代の遺跡からは様々な遺物が発見されます。当時の人々が何を食べていたのか、どんな道具を使っていたのか、昔のくらしをうかがい知る重要なヒントがつまっています。

石下産牡蠣

石下鴻野山で見つかった牡蠣(かき)の貝殻

昔の暮らしイメージ

昔の暮らしイメージイラスト

 鴻野山貝塚からは、カキをはじめとした様々な貝殻が見つかっています。海水域の貝殻がたくさん見つかることから、縄文時代前期には海岸線が常総市まで来ていたことが分かります。 この他、ヤマトシジミ、ハマグリほかクロダイなどの骨も見つかっており、当時の食生活の幅広さが伺うことができます。なお、カキの貝殻には細い棒状の跡も見つかっており、もしかしたら、縄文時代の人々は浅瀬に棒を突き刺しておくとカキが張り付いて楽に収穫できることを知っていたのかもしれませんね。

古墳時代の姿

古墳時代(3世紀から7世紀頃)にこの地方を支配した豪族達は、西日本から伝わった新しい墓制を取り入れ、たくさんの古墳を作りました。古墳のまわりなどからは埴輪など様々な遺物が確認されています。

 蔵持から古間木地域に所在する神子埋古墳群は、かつて85基の古墳が存在したといわれています。ほとんどは円墳ですが、前方後円墳も4基あったことが確認されています。現存している古墳においては、六所塚古墳は前方後円墳で全長70メートル、弁天塚古墳は全長31メートルの円墳で、それぞれ豪族や女性が埋葬されているのではないかと思われます。

 大化の改新(645)後に石下地方は下総国結城郡、その後岡田郡となり、延喜4年(904)に豊田郡と改称されました。

神子埋古墳第57号墳石室復元模型

埴輪

人物埴輪頭部

石室内再現

古墳石室の再現展示

この石室は、横穴式の埋葬方法の古墳から昭和4年に発見されたものを再現したものです。石室内部には、七体の人骨と直刀三振、匂玉などが見つかりました。

豊田氏の領した時代

 将門の死後、前九年の役(1051〜1062)に従軍した桓武平氏の平繁盛の曾孫平政幹が、この地方(豊田郡)を賜り、名前を豊田四郎平政基(将基)と改め、この地を領しました。鎌倉幕府では、御家人として源頼朝に仕えていたようです。
南北朝・室町時代の豊田氏の動向は、はっきりしていませんが、戦国時代に入り、豊田城・石毛城・向石毛城等の支城を拠点とし、支配領域の維持と共に小田氏と姻戚関係を結び、下妻多賀谷氏の南進を防いでいました。しかし、天正年間初め(16世紀初め)に、豊田城主豊田治親が、多賀谷氏に内通した家臣飯見大膳に暗殺され豊田城も落城し滅亡してしまいました。

蟠龍旗複製

豊田氏軍旗

豊田氏の始祖平政幹が、前九年の役に出陣した折、阿武隈川が洪水で追討軍が渡河できずにいたところのある晩、政幹の夢枕に妙見大菩薩が現れ、「明日、阿武隈川の先陣をすべし、吾守護神と成して渡さん」とのお告げがあった。翌朝、政幹軍は龍紋の入った旌から飛び出した龍の背を渡り、一番乗りの手柄をたてた恩賞として豊田郡を賜わり、この蟠龍旗を代々守護神としたと「小田軍記」「東国闘戦見聞私記」等に記されています。
その後、下妻の多賀谷氏との戦いに、この旗を持ち出し、敗走する時に松の木に忘れたものを法光寺(現下妻市千代川)で所蔵しています。

 

小田家の遺品展示

小田氏遺品展示

小田家の始祖は八田四郎知家で、源頼朝の挙兵を援けて鎌倉幕府での地位を確保しました。しかし、戦国時代には、佐竹・結城・多賀谷の各氏等との戦いに豊田氏と共に敗れ、名門小田家は滅んでしまいました。
ここに展示している小田家の遺品は、讃岐守氏治(天庵)の側室芳賀局より生まれた友治の子孫の品です。友治は、家督を譲られなかったため北条氏康に仕え、秀吉の小田原攻め後に流浪しましたが、子孫は甲州流兵学を学び、伊予松山藩に仕えて明治を迎えています。また、元禄赤穂浪士事件では、伊予松山藩の預かった大石主税・堀部安兵衛などの引取りから処分決定までの接待、切腹の介錯を朝栄(波賀清太夫)が行っています。

豊田領から江戸幕府領へ

 豊田氏が下妻の多賀谷氏に滅ぼされたあと、石下地方は多賀谷氏6万石の領地となりました。しかし、慶長6年(1601)に多賀谷氏が改易となり、慶長8年(1603)江戸幕府の成立後、石下地方は幕府の直轄領や旗本知行地に組み入れられました。
そして、幕府代官伊奈備前守忠次によるヤワラ(谷原)と呼ばれた鬼怒川と小貝川に挟まれた低湿地帯、氾濫原の開発が行われ、鬼怒川・小貝川流域の新田開発が進められています。
その後、5代将軍綱吉のときに施行された元禄地方直しにより、御領(幕府直轄領)と私領(大名飛地・旗本領)の入り交じった極端な入り組支配という特色のまま、近代を迎えることとなります。

飯沼新田開発

新田開発

古代、人が住み始める前の飯沼は縄文時代の紹介でも触れたように、海岸が石下まで来ており、太平洋の一部でした。その後、海水が引いて広大な湖沼となり、平将門の時代には舟で往来したといわれます。
飯沼周辺の住民は、洪水の度に苦しめられる飯沼を水害のない田園にすることに長い間苦心していました。
江戸時代に入り、8代将軍吉宗が行った「享保の改革」の新田開発奨励により、尾崎村(現八千代町)の左平太・大生郷村(現常総市大生郷)の伊左衛門・馬場村の源次郎・崎房村の三太夫等の名主をはじめ沼廻り24カ村の農民たちが「広大な沼に稲が生い茂る」ことを願い、幕府の援助や勘定吟味役伊沢弥惣兵衛為永の指導のもとで長い年月をかけて開発が進められました。

明治以降の石下

 慶応4年(1868)に明治新政府が成立し、石下地方は常陸知県事、下総知県事の管轄下となりますが、翌年若森県の管轄下となりました。そして、明治4年(1871)の廃藩置県後には、印旛県管下となり、さらに同6年千葉県管下を経て、同8年に茨城県に編入され、同22年の市町村制施行により豊田郡石下村・玉村・豊田村・岡田郡岡田村・飯沼村が成立しました。
明治29年には結城・岡田・豊田の三郡が合併して結城郡となり翌30年に石下村が町制を施行しました。
第二次世界大戦争終戦後の昭和29年に各村が合併し、石下町となりました。平成18年1月1日、水海道市と合併し常総市が誕生しました。

 

市所有デジタル資料の閲覧

常総市では所蔵資料のデジタル保存を推進しています。

石下町・水海道市史の閲覧、検索や展示している小田家の資料などをインターネット上にて高精細に閲覧することが可能となっています。

常総市デジタルミュージアム入り口はこちら

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/0821105100

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