更新日:2015年1月30日

地域交流センター 館内案内(3階)

古代の石下(旧石器・縄文・弥生時代)

 今から30万年前の氷河時代には、この近辺にもナウマンゾウが存在していました。しかし、氷河時代末期に旧石器人類が石器などを使って活動したため姿を消しました。
気候が温暖になった縄文時代は、土器や弓矢が使用され、貝や木の実、シカやイノシシなどを食べる生活が続けられました。その頃の遺跡が、鴻野山・崎房貝塚などで、ヤマトシジミ、ハマグリほかクロダイ等の骨が出土しています。
紀元前3世紀頃に、大陸より米作りの技術が伝えられ、石下地方にも伝わりました。しかし、弥生時代の遺跡は、国生本屋敷跡・馬場堤下遺跡があるだけで、遺跡の規模等不明な点を残しています。

関山式堅穴住居(せきやましきたてあなじゅうきょ)

(写真)地域交流センター3階竪穴式住居

町内の鴻野山で発見された貝塚から発掘された住居跡です。今から約6000年位前のもので、縄文時代前期の関山式期のものです。

復元模型

縄文土器

(写真)地域交流センター3階縄文土器

上記の竪穴式住居跡から発掘されたものです。

古墳時代の石下

 古墳時代(3世紀から7世紀頃)にこの地方を支配した豪族は、西日本から伝わった新しい墓制を取り入れ、たくさんの古墳を作りました。
その中で神子埋古墳群は、85基の古墳が存在したといわれています。ほとんどは円墳ですが、前方後円墳も4基あったことが確認されています。
その中で現存している古墳が2基あり、六所塚古墳は前方後円墳で全長70メートル、弁天塚古墳は全長31メートルの円墳で、それぞれ豪族や女性が埋葬されているのではないかと思われます。
大化の改新(645)後に石下地方は下総国結城郡、その後岡田郡となり、延喜4年(904)に豊田郡と改称されました。

神子埋古墳第57号墳石室復元模型

(写真)地域交流センター3階神子女石室

この石室は、横穴式の埋葬方法の古墳から昭和4年に発見されました。内部には、七体の人骨と直刀三振、匂玉などがありました。

豊田氏の領した時代

 将門の死後、前九年の役(1051〜1062)に従軍した桓武平氏の平繁盛の曾孫平政幹が、この地方(豊田郡)を賜り、名前を豊田四郎平政基(将基)と改め、この地を領しました。鎌倉幕府では、御家人として源頼朝に仕えていたようです。
南北朝・室町時代の豊田氏の動向は、はっきりしていませんが、戦国時代に入り、豊田城・石毛城・向石毛城等の支城を拠点とし、支配領域の維持と共に小田氏と姻戚関係を結び、下妻多賀谷氏の南進を防いでいました。しかし、天正年間初め(16世紀初め)に、豊田城主豊田治親が、多賀谷氏に内通した家臣飯見大膳に暗殺され豊田城も落城し滅亡してしまいました。

蟠龍旗複製

 

(写真)地域交流センター3階蟠龍旗

豊田氏の始祖平政幹が、前九年の役に出陣した折、阿武隈川が洪水で追討軍が渡河できずにいたところのある晩、政幹の夢枕に妙見大菩薩が現れ、「明日、阿武隈川の先陣をすべし、吾守護神と成して渡さん」とのお告げがあった。翌朝、政幹軍は龍紋の入った旌から飛び出した龍の背を渡り、一番乗りの手柄をたてた恩賞として豊田郡を賜わり、この蟠龍旗を代々守護神としたと「小田軍記」「東国闘戦見聞私記」等に記されています。
その後、下妻の多賀谷氏との戦いに、この旗を持ち出し、敗走する時に松の木に忘れたものを法光寺(千代川村)で所蔵しています。

小田家の遺品

 

(写真)地域交流センター3階小田家遺品

小田家の始祖は八田四郎知家で、源頼朝の挙兵を援けて鎌倉幕府での地位を確保しました。しかし、戦国時代には、佐竹・結城・多賀谷の各氏等との戦いに豊田氏と共に敗れ、名門小田家は滅んでしまいました。
ここに展示している小田家の遺品は、讃岐守氏治(天庵)の側室芳賀局より生まれた友治の子孫の品です。友治は、家督を譲られなかったため北条氏康に仕え、秀吉の小田原攻め後に流浪しましたが、子孫は甲州流兵学を学び、伊予松山藩に仕えて明治を迎えています。また、元禄赤穂浪士事件では、伊予松山藩の預かった大石主税・堀部安兵衛などの引取りから処分決定までの接待、切腹の介錯を朝栄(波賀清太夫)が行っています。

豊田領から幕府領へ

 豊田氏が下妻の多賀谷氏に滅ぼされたあと、石下地方は多賀谷氏6万石の領地となりました。しかし、慶長6年(1601)に多賀谷氏が改易となり、慶長8年(1603)江戸幕府の成立後、石下地方は幕府の直轄領や旗本知行地に組み入れられました。
そして、幕府代官伊奈備前守忠次によるヤワラ(谷原)と呼ばれた鬼怒川と小貝川に挟まれた低湿地帯、氾濫原の開発が行われ、鬼怒川・小貝川流域の新田開発が進められています。
その後、5代将軍綱吉のときに施行された元禄地方直しにより、御領(幕府直轄領)と私領(大名飛地・旗本領)の入り交じった極端な入り組支配という特色のまま、近代を迎えることとなります。

飯沼新田開発ジオラマ

 

(写真)地域交流センター3階飯沼開発ジオラマ

人が住み始める前の飯沼は、太平洋の一部でした。その後、海水が引いて広大な湖沼となり、平将門が舟で往来したといわれます。
飯沼周辺の住民は、洪水の度に苦しめられる飯沼を水害のない田園にすることに長い間苦心していました。
江戸時代に入り、8代将軍吉宗が行った「享保の改革」の新田開発奨励により、尾崎村(現八千代町)の左平太・大生郷村(現水海道市)の伊左衛門・馬場村の源次郎・崎房村の三太夫等の名主をはじめ沼廻り24カ村の農民たちが「広大な沼に稲が生い茂る」ことを願い、幕府の援助や勘定吟味役伊沢弥惣兵衛為永の指導のもとで長い年月をかけて開発が進められました。

明治以降の石下

 慶応4年(1868)に明治新政府が成立し、石下地方は常陸知県事、下総知県事の管轄下となりますが、翌年若森県の管轄下となりました。そして、明治4年(1871)の廃藩置県後には、印旛県管下となり、さらに同6年千葉県管下を経て、同8年に茨城県に編入され、同22年の市町村制施行により豊田郡石下村・玉村・豊田村・岡田郡岡田村・飯沼村が成立しました。
明治29年には結城・岡田・豊田の三郡が合併して結城郡となり翌30年に石下村が町制を施行しました。
第二次世界大戦争終戦後の昭和29年に各村が合併し、石下町となりました。平成18年1月1日、水海道市と合併し常総市誕生しました。

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